佐藤、ヴィーガンやめたってよ。
——そんな噂が立っても、たぶん、誰も困りません。
でも、何人かは「えっ」という顔をするかもしれません。あんなにかたくなに、肉も魚も卵も乳製品も——ヴィーガン、つまり完全な菜食を、続けていた人が、と。
ただ、「やめた」とは、少し違います。
今朝も、私の食卓に肉はありませんでした。ソイプロテインを水で溶いて、解凍したブルーベリーにバナナ1本とオートミール、焼き芋を半分、もずくをひとカップ。もう何百回も繰り返してきた、私の朝です。
お昼は、ブロッコリーにラー油を数滴、その上にカットしたリンゴ。たいてい変な顔をされますが、これがいいんです。
見てのとおり、ほとんどヴィーガンのままです。
ただ、子どもの残した焼き鳥や唐揚げに、ときどき手が伸びる。法事の席では、肉も魚も、断らずにいただきます。——これが、私が「やめた」ことの、すべてです。
正直に言うと、その肉や魚が、しょっぱいです。
草食になる前、雑食の時にはおいしかったはずなのに、舌の上で、塩の塊のように感じる。久しぶりにいただくと、「あれ、おいしくないな」と、本当に思います。
コーラも、ぱたりと飲まなくなりました。特に、肉をやめてから、味が変わってしまった。あれ、おいしくない。豚や牛を食べていた頃は、毎日1リットル近く空けていたのに。
——ヒトの舌の上の細胞は、十日から二週間で、すべて入れ替わるのだそうです。長く動物性食品を控えた舌は、塩分や脂(あぶら)を「多すぎる」と感じるように、少しずつ変わっていく。味覚は、生まれつきの才能ではなくて、食べたもので作り替えられていく、身体の一部なのかもしれません。
なんていうのは、ぜんぶ後から知った理屈です。
そのときの私は、ただ、しょっぱくて、食べられなかった。それだけでした。
痩せて、太って、また痩せて
話を、少し巻き戻します。
私はもともと、痩せていました。
小学校1年生まで、ひょろひょろの小食。野菜は苦いし、パンもおいしいと思えない。いま思えば、少し繊細な舌の子どもだったのかもしれません。
祖父に「もっと食べろ、もっと食べろ」と言われていたのを、よく覚えています。
ところが、小学2年生で食べる楽しさに目覚めると、体重は毎年10キロずつ増えていきました。
そして中学3年生で、98キロ。(100キロの壁を超える才能は、なかったようです。)
すると今度は、同じ大人たちが「もう、いいんじゃない」と言うのです。
——え、前は「食べろ食べろ」って言ってたのに。子ども心に、そう思ったのを、覚えています。
最初に「痩せなさい」と言われたのは、中学2年生のころでした。
母にすすめられて、ダイエット用のゼリーを食べました。
震えるほど、不味い。
「痩せなかったら全額返金」というキャンペーンでしたが、返金が殺到したらしく、届いたのは現金ではなく「もう一箱」。
もったいないから食べなさいと叱られ、痙攣しそうになりながら、毎日完食しました。
結果は、痩せず。ただ、ゼリーだけが、嫌いになりました。
外から「食べなさい」と言われたものは、こうして嫌いになる。——いま思えば、これが最初の予兆でした。
痩せたのは、努力というより、生活のおかげでした。
高校で、アメフトを始めました。1年の冬前からは、夜、新宿のファーストフード店でバイト。学校とバイトの往復は、自転車で1日15キロ。部活も、放課後にほぼ毎日、1〜2時間。
朝ごはんと昼ごはんは部活動をしている男子高校生並み、もしくは、それ以上に食べていました。だけど、晩ごはんはバイト後に母の手作りおにぎり1個。夜、帰ってきたらお腹は空いていたけど、空腹以上に、眠気のほうが勝ってしまう。
気づけば、2ヶ月で20キロ落ちていて、走るのが好きになっていました。
32歳のころには、雑誌の企画で体を絞ったこともあります。体脂肪率、9パーセント。生まれて初めて、腹筋が割れてシックスパックになりました。
32歳のとき、私は、たんぱく質と脂質と炭水化物の比率を計算しながら、お肉は鶏肉を中心に食べていました。赤身肉は、週に500グラムまで、と決めていました。
牛・豚・羊のような4本足の動物の肉は、量が増えるほど大腸がんのリスクが上がるといわれていたからです(1)。鶏のような2本足の肉では、いまのところ、はっきりした関連は見つかっていません。
——つまり私は、ある時からずっと自分の身体を、実験台にしてきたのだと思います。
もしかすると、子どものころ太っていて、人より少し早く「健康を失う」経験をしたことも、関係しているのかもしれません。
入れるものを変えれば、身体は応える。太りもするし、絞れもする。走れるようにもなる。その手応えが、たぶん、面白かったのです。
ヴィーガンも、はじまりは、その延長線上にありました。
なぜ、肉をやめたのか
ヴィーガンのきっかけは、何本かのドキュメンタリーでした。
一流のアスリートが植物性の食事のみで結果を出す映画。一卵性の双子を、片方は雑食、片方は菜食で比べた実験。長寿の人が多い地域を訪ねる番組。
——観ているうちに、「肉を食べるのが当たり前」という前提が、少しずつ、ほどけていきました。
「バランスのいい食事には、肉も魚も卵も乳製品も含まれる」。——それって、本当でしょうか。
ヴィーガンをはじめた理由は、ひとつではありませんでした。ひとつは、健康。もうひとつは、環境です。
牛や豚を育てるのに、どれだけの水と穀物と土地が要るか。畜産が出す温室効果ガスの量(2)を知って、私は、自分の食卓と地球が、細い管でつながっていることを、意識するようになりました。
(ただ——では、植物さえ育てればいい、というほど、単純でもありません。畑には、畑の話がある。でも、それは、また別の機会に。)
そして、もうひとつ。これは、私の、ひとつの解釈にすぎず、根拠はありませんが。
昔は、命をいただかなければ、栄養が手に入りませんでした。でも今は、冷蔵庫があり、野菜を育てる技術があります。だとしたら、あえて、生き物の命を頂戴しなくてもいいのではないか。
——もちろん、これは「正義」ではありません。食物連鎖のなかで、私たちは命をいただいて生きています。ただ、むやみには、奪わない。それくらいの距離感が、私には、ちょうどいいのではないか。
そして、その仮説を確かめたくて、誰にも迷惑のかからない範囲で、自己実験としてヴィーガンを始めました。
仮説は、検証してみないと、わからない。そして、論文などの研究は、統計を使った、多くの人に対する結果です。それが自分ひとりに当てはまるかは、やってみないと、わからない。
医師で「ヴィーガン」というのは日本では珍しいようで、ずいぶん質問されました。
「どうして?」
「肉を食べないと、栄養のバランスが悪いのでは?」
「ベジタリアンみたいで不健康そうなイメージがあるけど本当に体にいいの?」
と。
——その問いは、あとで、私自身に返ってくることになります。
食べることが、面倒になった
ちなみに、食べることが、いちばんの楽しみだった時期もあります。
98キロまで太ったことのある人間が、そのまま大人になったので、当然かもしれません。おいしいものを、お腹いっぱい。その欲が、いつも前のほうにいました。
医者になって、その傾向は、一時的に加速しました。
私が研修医だったころは、同年代より少しだけ、お給料が多いのが一般的でした。自分で稼いだお金で、好きなものを食べる。
上の先生たちが、いいお店に連れて行ってくれる。——舌は、どんどん肥えていきました。
ところが、舌が肥えるほどに、不思議なことが起きました。目の前の料理が、自分の「想像したおいしさ」を、超えてこなくなったのです。
ひと口食べる前に、だいたいの味が、わかってしまう。そして、たいてい、その想像どおり。
おいしい。でも、想像の範囲を超えないので、驚かない。だから、興味を失う。
人は大人になるほど、物事を予測する力が、ゆっくりと育っていくといわれます。皮肉なもので、予測が上手になるほど、予測を超える驚きと興味は、減っていくのかもしれません。
こうして、私のなかで、食の優先順位は、静かに下がっていきました。
誤解しないでください。味を失ったのでも、食を嫌いになったのでも、ありません。ただ、「想像を超える一皿」に、めったに出会わなくなった。それだけのことです。
やがて私は、食事を「選ぶ」ことさえ、面倒に感じるようになりました。
いまの固定メニューは、その結論です。
毎日、同じものを食べる。考えなくていい。固食。
食は、私にとって、楽しみの領域から効率の領域になりました。
よく、健康的な食事は「short-term pain, long-term gain(いま我慢して、あとで報われる)」と言われます。
でも、私の場合は、我慢ですら、ありませんでした。驚かなくなった舌が、勝手に、いちばん楽な道を選んだ。ただ、それだけです。
浮いた時間と意欲は、別の場所へ向かいます。
本、思索、まだ知らない考え方、自分を広げてくれるもの——食に効率を求めるかわりに、私はそれ以外のものに、たっぷりの無駄と寄り道を、許しているのだと思います。
例えば、この記事もその一つとして生まれました。
もう一度、自分を疑う
ヴィーガンを、数年、続けました。
結果、体調はよくなりました。体の重さや、胃のもたれや、ちょっとした不調の波が、静かになっていく。
——これは自分の体の場合、現時点では正解だ、と思いはじめていました。
そして、ある日、ふと、改めて疑ったのです。「ヴィーガンこそ、体にいい」。そう信じはじめている、自分に。
それは、かつて「肉を食べるのが当たり前」と思い込んでいた、あのときと、同じかたちではないか。ひとつの答えを握りしめて、疑わなくなる。
——私はまた、別の「呪い」に、かかりかけていたのです。
「肉を食べないと、栄養のバランスが悪いのでは?」
人から投げられたあの問いが、今度は、自分の内側から聞こえてきました。
だから、もう一度、確かめることにしました。自分の決めごとを、自分で疑う。
論文を、少しずつ読みました。動物性食品を完全にゼロにするよりも、魚や少しの乳製品を含む食べ方——地中海食と呼ばれるもの——のほうが、長い目で見た健康の指標は、むしろ良いだろうという報告(3)が、いくつもあったのです。
私は、魚を、少しだけ、食卓に戻しました。卵も、乳製品も、ほんの少し(ただし、チーズや燻製、加工肉は食べません)。
といっても、食べたいわけではないので、「絶対」食べないから「ほとんど」食べないに切り替えただけです。
「正しさ」を、ヴィーガンから地中海食へ、乗り換えたわけではありません。「いまの私には、こちらのほうが確からしい」。ただ、それだけです。
もし将来、「魚も控えたほうがいい」という確かな証拠が出てきたら、私はまた、ヴィーガンに戻ると思います。
答えは、変わりつづける。だから、握りしめない。
医師の顔で、裏を取ってみる
ここまで、ぜんぶ、私の身体の話でした。
では、研究は、何と言っているのでしょう。少しだけ、医師の顔で、体で感じたことの裏を、取ってみます。
地中海食のことも、4本足の肉のことも、さきほど触れたとおりです。
動物性をゼロにするより、魚や少しの乳製品を含むほうが、長い目で見た健康の指標は良いという報告(3)。
牛・豚・羊のような赤身肉は、量が増えるほど大腸がんのリスクが上がり、鶏のような2本足では、はっきりした関連は見つかっていない(1)。
——ただし、日本人の平均的な食べ方なら、その影響は「ないか、あっても小さい」。「赤い肉=即、がん」では、ありません。量と、人によります。
むしろ、私がいちばん不思議に思っているのは、別のことです。
私の舌が変わったのは、腸内細菌が書き換えたのだ、という説があります。それを論じた総説の題が、そのまま問いになっています。
「腸内細菌は、味わうのか?」(4)。
——答えは、まだ、出ていません。
……と、ここまで並べておいて、ひっくり返すようですが。
これらの「常識」にさえ、異を唱える研究があります。2019年、ある一流の医学誌に、「赤肉や加工肉を、いま以上に減らす根拠は、実は弱い」という勧告が載り、大きな論争になりました(5)。
つまり——いま「正しい」とされていることも、まだ、揺れている。
「わからない」と、言えること
最後に、ひとつ、白状します。
ここまで、もっともらしく書いてきましたが——私は、健康的な食事の絶対的な答えを、知りません。
ヴィーガンも、地中海食も、「これが正解だ」とわかって選んだのではありません。自分の身体を実験台にして、いまも、確かめている途中です。
私の舌が変わった理由でさえ、本当のところは、わかっていません。「腸内細菌は、味わうのか?」とお伝えしたように、「腸内細菌が、好みを書き換えたのだ」と言う人もいます(4)。
でも、それが本当かどうか、私には、わからない。
人の身体は、それくらい、まだ謎だらけなのです。
医者なのに、と思われるかもしれません。
でも、医療というのは、本当は、「わからない」と言えることから始まる仕事です。
断定するより、問いつづけるほうが、ずっと誠実なときがある。
だから私は、誰にも「こう食べなさい」とは、言いません。
正しくは、言えないのです。
私が手にしているのは、答えではなく、ひとりの人間の、途中経過の最適解だから。
その上で、少しだけ医学に詳しいので、話し合って、「こうしてみるのはどうですか?」とおすすめはします。
しかし、あなたの身体は、あなたにしか、実験できません。
なので、ひとつだけ。
私の身体が出した答えは、あなたの身体の答えには、必ずしもなりえません。
もう一度、いまの食卓に、戻ります。
ソイプロテイン、ブルーベリー、焼き芋、もずく。
——思えば、私は、ぐるりと一周したのかもしれません。
小学校に上がる前、野菜を苦いと感じ、パンをおいしいと思えなかった、あの繊細な舌の子ども。
太って、舌が鈍くなって、それから何十年もかけて、いま、また、繊細な舌に、帰ってきた。
肉を、しょっぱいと感じる。あのころ、野菜を苦いと感じたのと、同じように。
私たちの体は、食べたものでできています。
家にたとえるなら、食べ物は、柱や、壁の、材料です。
私は数年かけて、自分の体の材料を、少しずつ入れ替えてリフォームしてきました。
そうしたら、いつのまにか——それを味わう舌も、作り替わっていた。
答えは、まだ、出ていません。たぶん、一生、出ません。
でも、それでいい。
私はこれからも、自分の身体で、実験を続けます。
明日の常識が、今日の私を、笑うかもしれない。それでも。
——佐藤、ヴィーガンやめたってよ。
ええ。やめました。
「これが正解だ」と、握りしめることを。
※ この記事は、公開時点の科学的根拠と、佐藤将人というひとりの人間の仮説にもとづいた、途中経過の報告です。健康の「最適解」は、時代とともに変わります。そして食は、科学であると同時に、その人にとっては、どこか宗教のようなもの——だからこそ、自由なものだと思っています(6)。数年後にこれを読むあなたには、もう古くて、不適切な内容かもしれません。どうか、ご容赦ください。
よくある質問
食に興味がなくなったのは、心の不調のサインでしょうか。
その可能性は、あります。食欲や、食への関心が落ちることは、うつ病をはじめとする心の不調の、ひとつのサインであることがあります。
ただ、私のように、「楽しみ」から「効率」へ移っただけのこともあります。見分けの、ささやかな目安を。
- 急に変わったのか、ゆっくり変わったのか(急な低下ほど、気にかけて)。
- 体重の大きな減少、眠れない、気分の落ち込み、これまで楽しめたことが軒並み楽しめない——が、重なっていないか。
- 本人が、つらい・困っているか。
もし、気分の落ち込みや、興味のなさが、2週間以上続くようなら、どうか、専門家に相談してください。「効率になった」のと「失われた」のは、似ているようで、違います。
——もっとも、これも、ひとつの目安にすぎません。気になるときは、迷わず、専門家の目を借りてください。
